夕げ

こんにちは

9/16

気づいたら9月も中旬!夏はいつも、気づいたときには後ろ姿になっているね。

秋が姿を見せるのはいつも唐突で、しかもひっそりしている。日中は変わらず暑いのに、日が落ちる頃に風が冷たくなっていて、不意を突かれてびっくりしてしまう。そして去っていくのもまた、唐突で。

小学6年生のとき、「12歳の文学」という12歳までの子どものための文学賞に小説を応募した。原稿用紙に手書きで何十枚も書いて、5,6作送った。(すごい)全部2次選考で落ちちゃったんだけど、作品の一節に「これが『切ない』という感情なのだと、わたしはそのとき知った」っていうのを書いたことを、すごくよく覚えている。

当時、卒業を目前に控えて、保育園からずっと一緒にやってきた兄弟同然のクラスメイトたちとの日常が終わるんだという事実に毎日ひりひりしていた。中学校は近隣のほかの小学校との合併になるから、別に通う学校が変わるわけではないのだけど、たった一クラスで6年間以上やってきたから、同じ教室にこの面々が揃うことはもうないのだという事実がわたしを不安にさせた。

6年生になってからか、もう少し前からかはっきりしないけど、友達となにかをするたびに涙がでそうな気持ちになった。中間休みのドッチボール、掃除の時間のじゃんけん、夕ぐれの帰りみち、日常のあらゆる場面でその気持ちは突然に押し寄せて、わたしをどうしようもなく困らせた。何をするにも「こういうのも、来年はなくなるのか」というつぶやきが頭の中にふっと浮かんで、6年生の間はずっとさびしかった。

小説に切ないとはこれか!とは書いたものの、わたしは確信を持っていたわけではなかった。英語の穴埋め問題でにっちもさっちもいかず、途方に暮れて、これかなあ…と一番それっぽい単語を書いてみるのと同じ気持ち。当時わたしは本の虫で朝から晩まで一日に何冊も本を読んでいて、市立図書館の児童書のところは大体読み終えて、ヤングアダルトから大衆文学・純文学の本棚に進出していた頃だった。本の中で語られる「切ない」の意味を真にわからないまま自分の語彙の中にストックしてあって、不意に訪れる名前がない、寂しいに似た涙色の気持ちに、もしかしてあなたが…?って当てはめてみたのだった。

今もまだ、わたしが名付けた「切ない」が本当に世間と合致しているのかわからないままだ。でも今年の夏、わたしは6年生の時と同じ気持ちに苛まれて、つまり、切なかった。

理由はやっぱり友達で、誰かの唐突な掛け声で飲みに行ったり、長い夏休みにバイトや旅行やそれぞれのやり方で過ごしていたのが、友達らの大学卒業と共に終わってしまうのに気づいてしまったからだった。

友達とは同い年だけど、わたしは一年遅れて大学生になったから、みんなが学生を終えてからもう一年、大学生でいる。その事実が急に目の前に立ち現れて、みんなと何をするにも寂しさが付きまとった。ひりひりするような夏だった。切ない味の涙を鼻の奥に感じるたびに、それと同じくらい濃厚な、友達のことが大好きだって気持ちでいっぱいになった。

 

去っていこうとする夏を見送りながら読んだ本に、友達と過ごしたこの夏、わたしが感じていた気持ちを十分あらわしていた一節があった。わたしはこれから夏が来るたびに、今年の夏のこの気持ちを、何度も反芻するのだと思う。

私達はいろんなものを見て育つ。そして、刻々と変わってゆく。そのことをいろんな形で、くりかえし思い知りながら、先へ進んでゆく。それでも留めたいものがあるとしたらそれは、 今夜だった。そこいら中が、これ以上何もいらないくらいに、小さくて静かな幸福に満ちていた。

「TUGUMI」吉本ばなな