夕げ

こんにちは

話したくないことについて

 話が上手な人より聞くのが上手な人のほうがすごい、というのが社会で通説になってどのくらいになるだろう。あちこちで聞き上手であることが評価される。わたしも聞き上手への評価を疑わなかった。聞き上手な保健室の先生を尊敬していたし、相手が話しやすい存在でありたいと思い続けている。今も。でも、対等な人間関係を築こうとするとき、10:0で常に聞き役であり続けるわけにはいかない。

 人間関係の深遠さは、信頼関係に裏打ちされている。その信頼関係の構築においてとくに肝になるのは、「見せたくない部分」を共有する経験ではないだろうか。感情のままに泣いたり、怒ったりする姿を見せたり、恥ずかしい過去や悩みや弱点を打ち明けたり、打ち明けられたりする行為を積み重ねて信頼関係は補強されていくのだと思う。

 でも、わたしは自分の話をするのが苦手だ。知られたくない部分を明らかにするのが苦手なのはもちろん、自分の内面を打ち明けること自体が苦手だ。だから、会話はわたしがインタビュアーのように相手に質問をして話を促すような、一方的なものになることが多かった。それはまさしく聞き役に「甘んじる」行為で、相手に寄り添って話を聞いているふりをして、自分のことを知ってもらうことから逃げていただけ。この人間関係の道理と、それから逃れている自分を自覚したのが去年の夏で、ちょっとずつ「ダサい自分のままでも相手は自分を好いてくれる」と言い聞かせて、顔を真っ赤にして悩みを相談してみたり、大泣きしてるのを慰めてもらったりしている。青くさい自尊心がダサー!と騒ぐときもあるけれど、弱いところを隠さなかった自分の勇気に乾杯!という晴れやかな達成感と、着飾っていた服を一つ脱いだような開放的な気持ちを感じている。

  一方で、いまだに苦手なのが、自分のお気に入りについて話題にすることである。自分の好きなものを共有することもまた、自分の情報を共有するという点で、信頼関係を築くときに重要な要素であることには違いない。

 信頼関係を築くという目的からはズレるが、就職活動でも好きなものを語ることがしばしば要求される。求める人材に「何かに夢中になった経験があり、その魅力を他人と共有できる人」を挙げる企業は少なくない。企業の主張はわかる。わたしだって自分の好きなことを熱量たっぷりに話してくれる人が大好きだ。聞き役に甘んじていたときの癖もあってどんどん質問してしまう。でも、夢中になるほど好きなことを開示する行為は、自分のアイデンティティや価値判断の指標など、わたしの根幹をあけすけに披露している気がしてならない。それと同時に、わたしのお気に入りのものに対する社会的イメージから、自分を安易にカテゴライズされる気がして腹が立つ。中学生の時と逆である。

 自我が芽生えだす中学生の頃は、何とかして「自分は自分である」と自分にも周囲にも知らしめたくて、外的な要素を内面化しようとする。そして周囲に発信する。例えばBUMPOFCHICKEN。「バンプが好き」という自分の側面を誇大化して、その安易なラベリングによって自己を確立し、バンプが好きだと公言することで周囲からも「バンプが好きな人」、ひいては「ロックが好きな人」という社会的イメージのもとに認識されたがった。

 しかし、本当に面倒なことに、自分の構成要素が増えてくるにしたがって、どれかひとつをピックアップしてわたしをジャッジするのは間違っていて、わたしはもっと複雑で多面的な人間なんだと思いはじめる。加えて、お気に入りのものを愛でてきた期間のなかで、それは個人的な経験や歴史といっしょくたに結びつき、自分だけの色をして、自分だけのにおいをしている。だからお気に入りのものを話題にするとき、わたしは自分自身の人生や価値観、あるいはコンプレックスや弱点まで丸裸にされているような気分になるのだ。それに、第三者は、わたしが「自分だけの色やにおいをしているお気に入り」だと思っているコンテンツについて、私が話さない限りわたし固有の思い入れを知るはずもないので、「一般的にそれを好きな人」へのぼんやりとしたイメージに基づいてわたしをジャッジするだろう。お気に入りのそれは、既にわたしだけの形になって、社会一般のイメージとは似ても似つかないかもしれないのに。

 このあいだ、就職面接で「どんな雑誌を作りたいのか」と深掘りされて、答えあぐねた末にBUMPOFCHICKENの名前を安易に出してしまった悔しさが舌に残ったままだ。その企業は不合格となったけれど、あのとき面接官はわたしをどんな人だとジャッジしたのだろうか。