夕げ

こんにちは

18度

働きだしたら、毎日「私はどう考えているのか」を求められる。

頭の中で考えていることを人に説明するのは本当に難しい。

気心の知れた友達に、わたしの語彙から、多少間違えても笑ってくれることを知っていて、自由に言葉をつまんで説明するのとはわけが違う。社会人として、支援者として、会社の一人として、あらゆる人間関係に配慮して伝える必要がある。そうだよね?

わたしはそれに本当に苦心している。

伝えることだけじゃなくて、考えを持つことにも苦心している。

考えを持つことっていうのは、特に、支援に対して。

支援を担当する者として、支援者の見解を求められるのは当然。仕事で支援しているわけだし。

ただ、わたしの選択肢が狭すぎるし、不透明だし、「一般的には」どういう選択肢があるものなのかも知らない。その状態で回答するのが怖い。そんな感じで自信のないわたしの回答が支持されて、当事者の決定になってしまうことで責任を負うのも怖い。自信が無いから覚悟もないのかもしれない。

それでも、わたしの意見を伝えなければいけない場面は一日に幾度となくやってくるから、なんとか伝えようとする。

そのとき、今度は頭の中にある考えを言葉にしなければならない。

思考を言語化すること、特に口話として発することは、下書きもないまま清書するような行為だと思う。

目の前にいるのがひとりだったらまだいい。「相手」と「わたし」、「当事者」と「支援者」とか「上司」と「部下」とか、社会的に定義される立場が明確で、わたしはどの立場から言葉を選べばよいのかわかりやすいから。

でも、「当事者」「企業の人」「わたし」とかになると、もうしんどい。

対当事者だったら「支援者」、対企業だったら「関係機関」のわたしとして言葉を選べばよいけど、ふたりが一緒になって目の前にいたら、双方に配慮しないとならない。

頭の中で思考している混沌として形のないものを、適切に形容したり説明したり名前をつけたりしなきゃいけない。それだけで途方もなく骨の折れることだけど、「支援者」であり「関係機関」であるという視点から、双方に敬意を示し、気持ちに寄り添い、誤解のないようにという条件が加わると、大海原の真ん中に放り出されたような気持ちになる。

それで、放り出されたまま呆然として、焦って、でもなんとかしようともがいた結果、目が泳いだり、言葉を選び間違えたり、言いよどんだり、どもったり、そんな風になる。

いまわたしが辛いのは、そんなふうにもがいている様子を晒してしまう恥ずかしさではなくて(もちろん楽しいわけじゃない)、それによって相手との間に誤解が生じたり、傷つけたりしてしまう可能性だと思う。

毎日恐れて、心配して、疲れ切っている。

必要な苦労だと思っているけど、大変なことには変わらない。

誤解や傷つけてしまう可能性をしょうがないと割り切って、他人から否定的な評価を下される可能性も受け容れられたら、もっと楽になれると思う。

いまわかっているのはそれくらいで、方法は見つかってない。