夕げ

こんにちは

「どうして子供が欲しいって思うんだろう」とわたしも思います。

「嫌味じゃなくて単純な疑問なんだけど」という枕詞を付して、どうして子供を産もうと思うのか疑問を呈するツイートがたくさんリツイートされています。この件について、わたしも長年同じ疑問を抱き続けていたので、鍵垢から渾身のいいねを押さずにはいられませんでした。「みんなそんなに自分の人間性に自信があるんだろうか」という一文が「子どもを設けているひとはみな立派に子どもを育て上げ、自身も立派な親になる自信が存分におありな方々なのでしょうなあ」という上から目線な文章にも解釈できることから、現在子育てをされている方々を中心に「初めから自信のある親なんているわけないだろ」という批判の声も多く見られます。実際に子育ての渦中にある方々からからはそのように解釈され得る一文だと思います。ただ、わたしも長年ツイ主さんと同様の疑問を抱き、自身が子供を産むことはないだろうと思って生きているので、ツイートの徹頭徹尾「わかる~」と頷いてしまいました。わたしは現在22歳、恋愛経験も乏しく、セクシャリティも関連して自身が子供を産むことはおろか結婚や交際も今後の人生で経験しないのではないかと考えています。しかし、田舎の親類に将来の結婚や出産を期待されて悩んでいる身として、以下に私見を綴りたいと思います。

個人的な解釈に過ぎませんが、ツイ主さんの他のツイートも拝見して推測するに、彼女が「単純な疑問」として知りたかったことはこうだと思います。「人それぞれ短気だったりマイペースだったり部屋を片付けられなかったり束縛気質だったりコミュ障だったりという短所があってそれを子供にぶつけてしまうかもしれないし、親が突然ブン殴ってきたり自分の容姿を否定してきたり兄弟と比べてきたり、非常識なルールを強要してきたり性欲をぶつけてきたり、両親が深刻な不仲で息をするのもしんどいなどの経験があって家族に嫌な思い出があると思うんですが、それでもなお子供が欲しいと思われたのはどうしてなのですか?」

わたしはツイ主さんのツイートを大体上述のように解釈しました。みんなどんな反応をしているのだろう、積年の疑問への回答が見られるかも!と思ってリプライをのぞくと、疑問への回答というより同意と非難のような構図になっていて少しびっくりしました。冒頭で述べた通り、誤解を生む表現であることは考慮しても疑問への回答が少なすぎではないだろうか。しかし、ツイ主さんに批判的な意見を見るにつけ、あーツイ主さんが(というかわたしが)求めている回答は子供が欲しいと思う人、あるいは子供を持つ人からは決して得られないのではないかと思い始めました。子供が欲しいと純粋に思う人、子供を持つことに疑問を感じない人は、ツイ主さんが、あるいはこのツイートに共感する多くの人がこの疑問を抱くに至った背景を経験していないのではないか。この文章は、その仮説をほとんど確信しながら綴っています。

ツイ主さんに批判的な意見には、以下のようなものがありました。
「なんで人間性に自信がないと子供産んじゃダメなの?」自身の人間性の出来・不出来は子供を持つ決断とは関係ないだろうという意見です。

「そんなに自分に自信がないの?私は自分のことが好きだから、子供も可愛く育つと信じていたし、失敗したってやり直せると思っていたよ」。ツイ主さんは自己肯定感が低いから自身の子供も同様に(容姿に言及しているから"不細工"に?)育つだろうと悲観しておられると解釈しての意見でしょうか。それから、子育ての"失敗"を「挽回できるもの」と解釈されています。

「子孫を残そうと思うのが生物の本能なのだから、子供がいらないと思うのは生物として劣っている」。生物としてい子供を残そうと思うのが当然だという意見です。

「子供は自分一人の遺伝子じゃないだろう。育てるのだって一人じゃない。」という意見。数少ない疑問への「回答」のなかでしばしば見られた「愛する人の遺伝子を残したかった」という理由とも近いでしょうか。育児も周囲の人の支えが得られるのだからあなた一人で責任を負うものではないよ、という意見と解釈しました。

これらの意見は、ひとつとして子供側の立場に立っているものはありません。

一方で、産もうと思わないひとたちの主張は「自分の遺伝子を受け継ぐなんて子供がかわいそう」「楽しいことより苦労が多いこの世に送り出す覚悟は持てない」「経済的にも自身の器としても子供を満足に育てられるとは思えない」「自身の家庭を見て家族に良いイメージがない」「自分が親にされたことを子供にしてしまう可能性が怖い」など、多くが子供目線の意見と解釈できます。

ここから考えられることは2つあります。まず、子供を持つことにおよそ疑問を抱かないひとびとは、少なくとも現在、自身の生に否定的ではないこと。そして家庭や家族に対して肯定的なイメージを抱いているということです。つまり、子供が生まれてくる社会や家庭に対して楽観的だから、子供がこの世に生まれてくることに疑念はなく当然の摂理だと思っていて、自身が子供に苦しみを与える存在になる可能性を考えていない。子を持つことに否定的な人は、きっと子供が社会で自分と同じ境遇に陥り、同様の受難を被ることを恐れています。あるいは、自身が子供のときに受けた苦しみを自分が子供に与えてしまう可能性を危惧しています。少なからずわたしはそう思っています。

しかし、これはごく当たり前の流れだと思います。親に大切にされた思い出がたくさんある人は、自分も親がしてくれたように子供にしてやれると潜在的に思うはずです。それが彼らにとっての「親」だから。自分が親になったときに突然子供をブン殴ったり容姿を否定したり兄弟と比べたり、非常識なルールを強要したり性欲をぶつけたりするとはきっと思わないでしょう。

つまり、「親」の概念が根本的に違うのだと思います。

子供を持つ想像をするとき、自分の親をロールモデルにする。あのとき自分を痛めつけた人に将来の自分を重ねたときに抱くのは、「絶対に自分はそうならない、なりたくない」という覚悟と恐怖です。もしもあの行いを親が"失敗"と言うのなら、わたしは育児に決して挽回のきかない失敗があることを知っています。

ツイ主さんの意見に対して「生みの親がどうであれあなたと親は別人格。あなたの子供もあなたとは別人格だから自身の人間性を悩む必要はない」と仰っている方がいました。その通り、その通りだったらしあわせだと思います。ただ、同じ血が流れている以上、別人格とは言い切れないかもしれない、その可能性に怯えているのです。

 

家庭の環境が良好とは言えなかった、保護者が保護者としてあるべき姿ではなかったご家庭で育ち、いまお子さんを育てている方はたくさんいると思います。

どうして子供が欲しいと思ったのですか。

教えてください。