夕げ

こんにちは

連続しないことについて

一昨年、大学の講義で震災文学論というのを履修した。担当の先生が、大学の先生では相当めずらしく予備校の講師ばりに授業が上手で、いつも一番前の席で受講した。授業を楽しみに一週間を過ごすというのは、わたしの長い学生生活のなかでもなかなかないことだった。

震災文学論とは、文字通り震災を題材にした文学、あるいは震災時期に書かれた文学を取り上げ、文学というメディアと震災の関連を紐解くという内容だった。関東大震災阪神淡路大震災東日本大震災と、日本を襲った震災とそれに関連した小説やエッセイ、あるいは当時の政治家の回想文などを読んで、講義を聴き、レポートを書いた。

午後のなんとなく気のゆるんだ教室でよどみなく話し続けた先生の言葉で、特に印象に残っているものがある。「もう社会は、3.11以前か以後でしかありえない。」

震災が起こったとき、新聞や雑誌で私小説を連載していた作家は、連載を続けるのに相当悩み、手探りだったという。というのも、私小説とは作者が自分自身にまつわるあれこれを物語らしく書くものだから、地震で被災したことだけを避けて書くのはほとんど不可能だからだ。しかし、順を追って自分の半生を毎日・毎週綴ってきたのに、突然地震の話題に転換するのは難しい。でも、社会がもはや日常を失っているときに、これまでの続きを何食わぬ顔して連載するわけにもいかない。日常の分断が生じるのである。

わたしは、ふとコロナウイルスも同様の事態を引き起こすのではないだろうかと思った。きっと社会は「コロナ以前/以後」で語られることになる。

コロナウイルスはあっという間に世界中に蔓延し、人命も経済も生活も、当たり前に続くと思われていた日常を分断した。

自粛期間がどのくらい続くのかさえ不透明なコロナ禍の渦中にあるわたしたちに、コロナ以後はどのような社会になっているのか想像するのは甚だ無理な話だが、明らかなのはコロナウイルスが流行る前には戻れないということだ。わたしたちが迎えるのは、コロナウイルスの流行を経た後の新たな社会だ。

日常は連続しない。友人に会わなくなって1か月、部屋でひとり身に染みた。