夕げ

こんにちは

誤り

先日、朝からなんとなくいらいらしている日があった。

そういう日はもう目覚めた時からいらいらしている。窓を閉め切った部屋で昼前に目覚めて、身体が汗でべたべたしていることにどうしようもなく腹が立った。眉間にしわを寄せてもだえるように何度か寝返りを打って、もーとかなんとか苛立ちを声に出しながら身体を起こす。赤ちゃんがお腹がすいてもおしっこをしても泣くように、わたしはすべてにいらだっていた。そういう日だった。

明確な対象があるわけでもない苛立ちをくすぶらせたまま、洗濯室から洗濯物を抱えて部屋へ戻ろうと廊下を歩いていると、事務室の前に年のいった男性がこちらへ体を向けてたたずんでいるのが見えた。寮への来客はめずらしくない。わたしは中学校の校長の比でないくらい挨拶を信条にしているので、怒りの火が燃え続けていても挨拶はする。20メートルほど先にいるその人にこんちは、と不愛想な野球部のような挨拶をして女子棟へ向かう角を曲がるとき、こんにちはという声といっしょに視線が追ってくるのを感じた。おそらく、身長が男性の平均ほどで短髪のわたしが女子棟へ向かったことを訝しんでいたのだろう。しかし、こちらは朝から無性に腹が立っているので、見てんじゃねえよクソがよと思いながら眉間のしわを深めて部屋へ向かう。すると不意に、さっきのじじいが以前寮の集まりで酩酊しながらわたしと友人の会話に割って入ってきて、学部はどこだと問われ文学部と答えたわたしに唾を飛ばしながら人文学がいかに無意味かを説いてきた奴だと思い出した。瞬間に、西日が差しかかる廊下よりずっと頭が熱くなるのを感じた。理系の友人を褒めながら、ジェンダー学や文学がいかに金にならないかを、椅子に座るわたしへ顔を突き出して語ったあのじじいだ。わたしは部屋に入るなり冷たい洗濯物がいっぱいに入ったかごを床へ放って、真っ赤な声であーとかもーとか言いながら乱暴にカーテンを引っ張った。がちゃがちゃとベランダへ出る窓を開けようとすると、窓ガラスに小さい蜘蛛が這っている。夏も始まって、最近窓辺でよく見る種類のやつだ。もはや怒りに突き動かされたわたしは、ティッシュを引き抜いて蜘蛛めがけて勢いよく叩きつけた。裏返したティッシュは真っ白で、蜘蛛は突然の振動に慌てて窓を登っている。わたしはまたも力まかせに叩きつけた。ぐしゃぐしゃのティッシュの隙間から蜘蛛が這いだしてくる。鼻の頭の汗をぬぐいながら逃げ惑う蜘蛛を再度叩きつけたとき、自分が怒りに燃え盛って明確な殺意を抱いていることに気がづいた。わたしはいま、怒りのままに自分より弱い生物を殺そうとしている。すると突然自分が怖くなって、せわしなく窓を登る蜘蛛を湿ったティッシュでそっとつまむように掴んだ。蜘蛛は身をよじり、わたしの手の甲を伝って床へ逃げる。逃がすから!殺さないから!とわたしは思わず声に出して床を走る蜘蛛を掴んでベランダへ投げた。ぐちゃぐちゃになったティッシュに少しだけ蜘蛛の体液が染みていた。

呆然として、しばらく椅子から動けなかった。少し息が上がって、身体中べたべたしている。わたしは今、怒りに猛って虫を殺そうとしていた。今まで虫を殺したことはある。ただ、怒り狂って殺したことなどただの一度もなかった。わたしの中でいま、怒りが殺意に結びついたのだ。

わたしは自分の恐ろしさに、怒りも忘れてただおののいていた。ふさわしい罰を求めてさえいた。

開け放ったベランダからはひとつの風も吹いてこなかった。