夕げ

こんにちは

さっき分かったこと

つい先ほど、朝の4時半すぎに、締め切りが迫った書道の課題を提出しにポストへ出向いた。

部屋でひとり筆を持っている間、うなり声を上げて吹き付けていた風はまだ街をさまよっていて、寮の重い扉を開けると駐輪場の自転車がひとつ倒れていた。道路には秋のせいか風のせいか枝からはぐれた葉っぱが散らかっていた。

こんな時間に外へ出ることはないから、すこしわくわくした。

コンビニで切手を買ってすぐ近くにあるポストに投函するつもりだったので、最寄りのコンビニへ向かう。歩いて5分もかからない。

小学生が走り回るような勢いで吹きすさぶ風は、眠気で惚けた身体を心地よくすり抜ける。

誰もいないアスファルトをてくてく行って、なんか違うな〜とおもう。

眠気と暴風でしょぼしょぼする目を刺す明かりがやたらに目についた。

そう思ったら、道すがら電灯ばかりに目がいく。2、30メートルを空けてじっと立っている街灯、不動産屋の看板の仰々しいライトアップ、玄関先で表札を照らす明かり。アパートのエントランスや階段もおしなべて煌々と明かりがついている。

わたしはなんだか呆れてしまって、がっかりしながら枯葉を蹴った。

コンビニも言うまでもなく、なにかを誇示するみたいにぎんぎら明るかった。そこだけ昼より昼だった。

2円高くなった切手を先生の返信用と提出用に2枚買って、ひとつを封筒に貼り、ひとつは封筒の中に入れてポストへ入れた。ポストもまた、ひんやりして気持ちよかった。

コンビニに背を向けると、解放されたような心地になってすこしほっとした。来た道を戻りながら、わたしは実家の夜を思った。わたしは実家にいたころ夜が大好きで、よく何をするでもなく窓を開けて、小一時間ただ外を見ていた。わたしの家のちょうど真ん前に、もう何十年も立っていて、すでに錆びて傾いている街灯がある。最近LEDに変わって明るくなったものの、辺りに広がる暗闇の割合も濃度も圧倒的だから、それは夜を邪魔するほどの光にはなっていない。うまく調和している。

東京は、暗闇を恐れているのだろうか。東京の夜は、まるでかりそめの昼を作り出しているみたいだった。

暗さを知らないと明るさもまた知らないままだ。夜は星が出るし、夜が明ければ朝焼けがくる。くるのにな。

さながら宮崎駿のように都会を批判している感じで、住まわせてもらっているくせに何を言ってやがると自分でも自分に唾でも吐いてやりたくなるのだけど、都会に来たから、わたしは田舎の真っ暗な夜を知ったの。だからこれは、「さっき分かったこと」っていう話です。

ある

先週の週末が過ぎて東京で始まった一週間は、まるで生気が抜けたみたいな身体で生活した。なんにもしたくないまま日曜日の夜になったんだけど、それでもちょっとずつ学校の予習をしたり課題を提出したり、やらなきゃいけない日常のさまざまに向き合ってちゃんとできてる自分がさびしくもある。う~ん、できごとは確実に過去のことになっていて、無情だね。わたしが、薄情なのかもしれないね。もしかして

さっき部屋を片付けていて、会場で配られる腕のぴかぴかを数えたらちょうど10個あった。ひとつだけ、すこし振ったら光った。わたしが初めて腕にぴかぴかをつけたのは2年前の9月16日で、そこから9回も見たんだなあ~。すごい数だ。上京するまでわたし、自分が腕をぴかぴかさせて明滅のひとつになれるなんて本当文字通り、これっぽっちも思っていなかった。それから、文字で繋がった友達に会えるとも思っていなかった。たった2年でわたしはうんと、思いもよらないしあわせを知った。思い返すと全部、ひりひりするくらいのやつ。でも、いま抱えてるのはずっとやばいやつだ。会場まで行く道のりのどんより垂れこめていた雨雲とか、友達が食べていたピザの甘いにおい、お城の砂利を踏んづけた音とか、そんなをふとした時に思い出してはうっとなる。会場のなかで見たことはもう、ダメ。ほんとにいたこととか、歩いてたこと、振動、呼吸とか、音が鳴るとかそういうの以前のこと思い出すだけでため息が出る。甘い味じゃなくて酸っぱいしょっぱい苦いとか、心地よくない味のやつ。それより核心に迫る見たこと聴いたことの話はあまり、言及しないでおく。泣くから。

感じたことのない寂寥感にドン引きしている。ドン引きしたまま一週間が過ぎた。わたし、この秋の3日間をたのしみにしすぎていたんだと思う。もちろんそれは素敵なことなんだけど、こないだの週末が待ち構えていた予想のたのしさをはるかに上回ってきちゃったから、淡色の日常に戻るのがくるしいんだきっと。それから、優しくされすぎたね。孤独に泣いた夜に、あしたを恐れた夜に聴いた歌を歌われて、声の持ち主に「きっとこれからどうしようもなく辛いときがあって、そんなとき物理的に傍にいてあげたいけど、それができないから、でもそんなとき、歌は傍にいる」なんて言われたら、なあ?そんな愛の伝え方ありかよ?(愛っていうのは広義に、まごころの意味を強く持つやつのつもりで言っている)

声が「明日も今日の続きを生きてる」って言ってたその言葉だけポケットにいれて、抜け殻のまま明日もやる…。抜け殻は今日、インドカレー屋さんでチーズナンを食べてとってもしあわせな気持ちになりました。たぶんお友達とバスで発つまえにおしゃべりしたとき以来のふくよかな気持ちでした。

空っぽであの日を恋い焦がれたまま後ろ向きに歩くのしんどいんだけど、しんどいままのほうが良い気がする。しんどいけど…。11月にお友達と音を聴くまで、わたしはあの日のゾンビのままなのかな。それも良い気がする。しんどいけど…。

わたしが言い得ぬせつなさに溺れているときも日常が全自動なのむかつくね。登場人物含め。文字の世界は同じ気持ちの人がいて救われちゃう。

ご自愛して、寝ようね。

さよなら

その日、群青は星を連れて、どんどんやってきた。ぼくは自転車に乗りながら、本当に家に帰るべきかな?と思った。帰るべきかな?家に。群青が星を連れてきているのに?
街の輪郭がぼやけだした。自転車は、夕飯や石鹸の匂いと昼間の浮かれすぎた空気が同居する道を滑ってゆく。
ぼくは、友達がさっき言っていたことを思い出した。蝉、全部死んだかな?
そばだてた耳の鼓膜を、その不在がふるわせた。
そうして、ぼくは気づく。
ぼくに吹きつける風は鋭くとがって、ずっと遠くにいたはずの冬を内包していた。
ぼくははっとして、はっとしてそのあと、ゆき過ぎた夏をおもった。朝顔、波打ち際、蚊取り線香の煙。
群青は街を覆って、風は秋の到来を宣言した。
ぼくは去っていく浮かれた季節の後ろ姿を見ながら、どうしようもなく胸に迫る寂しさをあじわう。

秋が来たのだ。

9/16

気づいたら9月も中旬!夏はいつも、気づいたときには後ろ姿になっているね。

秋が姿を見せるのはいつも唐突で、しかもひっそりしている。日中は変わらず暑いのに、日が落ちる頃に風が冷たくなっていて、不意を突かれてびっくりしてしまう。そして去っていくのもまた、唐突で。

小学6年生のとき、「12歳の文学」という12歳までの子どものための文学賞に小説を応募した。原稿用紙に手書きで何十枚も書いて、5,6作送った。(すごい)全部2次選考で落ちちゃったんだけど、作品の一節に「これが『切ない』という感情なのだと、わたしはそのとき知った」っていうのを書いたことを、すごくよく覚えている。

当時、卒業を目前に控えて、保育園からずっと一緒にやってきた兄弟同然のクラスメイトたちとの日常が終わるんだという事実に毎日ひりひりしていた。中学校は近隣のほかの小学校との合併になるから、別に通う学校が変わるわけではないのだけど、たった一クラスで6年間以上やってきたから、同じ教室にこの面々が揃うことはもうないのだという事実がわたしを不安にさせた。

6年生になってからか、もう少し前からかはっきりしないけど、友達となにかをするたびに涙がでそうな気持ちになった。中間休みのドッチボール、掃除の時間のじゃんけん、夕ぐれの帰りみち、日常のあらゆる場面でその気持ちは突然に押し寄せて、わたしをどうしようもなく困らせた。何をするにも「こういうのも、来年はなくなるのか」というつぶやきが頭の中にふっと浮かんで、6年生の間はずっとさびしかった。

小説に切ないとはこれか!とは書いたものの、わたしは確信を持っていたわけではなかった。英語の穴埋め問題でにっちもさっちもいかず、途方に暮れて、これかなあ…と一番それっぽい単語を書いてみるのと同じ気持ち。当時わたしは本の虫で朝から晩まで一日に何冊も本を読んでいて、市立図書館の児童書のところは大体読み終えて、ヤングアダルトから大衆文学・純文学の本棚に進出していた頃だった。本の中で語られる「切ない」の意味を真にわからないまま自分の語彙の中にストックしてあって、不意に訪れる名前がない、寂しいに似た涙色の気持ちに、もしかしてあなたが…?って当てはめてみたのだった。

今もまだ、わたしが名付けた「切ない」が本当に世間と合致しているのかわからないままだ。でも今年の夏、わたしは6年生の時と同じ気持ちに苛まれて、つまり、切なかった。

理由はやっぱり友達で、誰かの唐突な掛け声で飲みに行ったり、長い夏休みにバイトや旅行やそれぞれのやり方で過ごしていたのが、友達らの大学卒業と共に終わってしまうのに気づいてしまったからだった。

友達とは同い年だけど、わたしは一年遅れて大学生になったから、みんなが学生を終えてからもう一年、大学生でいる。その事実が急に目の前に立ち現れて、みんなと何をするにも寂しさが付きまとった。ひりひりするような夏だった。切ない味の涙を鼻の奥に感じるたびに、それと同じくらい濃厚な、友達のことが大好きだって気持ちでいっぱいになった。

 

去っていこうとする夏を見送りながら読んだ本に、友達と過ごしたこの夏、わたしが感じていた気持ちを十分あらわしていた一節があった。わたしはこれから夏が来るたびに、今年の夏のこの気持ちを、何度も反芻するのだと思う。

私達はいろんなものを見て育つ。そして、刻々と変わってゆく。そのことをいろんな形で、くりかえし思い知りながら、先へ進んでゆく。それでも留めたいものがあるとしたらそれは、 今夜だった。そこいら中が、これ以上何もいらないくらいに、小さくて静かな幸福に満ちていた。

「TUGUMI」吉本ばなな

 

 

 

9/2

中学校を卒業して7年が経つ。小中高と、わたしは教室の真ん中にいるタイプの生徒だった。学級委員や生徒会をしていたし、体育祭や文化祭で幹部にならない年はなかった。楽しいこともあったはずなのに、いまになっては当時感じていた息苦しさばかりが思い出される。

きっと人並みに、人間関係には悩んだ。無視をされたり、やり返したり、時に相手の親も介入してくるような喧嘩になって縁を切った友達も何人かいる。

わたしは先生によく叱られる生徒だったので、叱られた思い出が色や場所を変えていくつもある。授業中に教室を追い出されたり、わたしの失態で授業を潰しての学級会になったり、校則違反で泣きながら先生の自宅まで電話をかけたり、自分が悪かったなあと思うことも、そうでないこともある。

中学生のときって、中二病なんて言葉があるくらい、特殊な時期だ。「へん」になりがちな時期。自意識が頭をもたげて、どんどん自分を臆病にさせる。それを取り繕うために、取り繕うすべを見つけるために無我夢中だ。それを周囲に悟られようものなら恥ずかしくてしょうがないので、また取り繕おうとなけなしの格好をつける。もう八方塞がりだ。

わたしの地元はかなりの田舎で、保育園から一緒の幼馴染たちと小学校6年間を共にし、中学からいくつかの小学校の生徒たちと合流するかたちだった。

中学って、目に見えない規則がいっぱいだ。1年生はカバンを肩掛けにしちゃいけない。廊下で先輩に会ったら挨拶。同じ小学校で仲良くしてた1個上の友達にも堅苦しい言葉遣い。1年生は黒か白のセーターだけ。いっぱいあった。その上、中学で一緒になった子たちは、小学校時代に学級崩壊を起こしている学年の子たちだった。はじめましてのコミュニケーションで当たり障りのない言葉を探していたわたしにとって、ためらいなく発せられる「しね」とか「きもい」とかいう“ツッコミ”は衝撃的だった。

わたしの「中2病」は、人の目が気になりすぎる症状が先発した。それから被害妄想。

中2病ってこういうのを表す言葉でないのは承知の上で、ここでは中学生ならではの「特殊な」精神状態を指す言葉として使うね。

とにかくみんながわたしを馬鹿にしているような気がして、とっても怖かった。同じグラウンドで練習しているサッカー部がどっと笑うとわたしのことを笑ったのかと冷や汗をかいたし、廊下ですれ違った先輩に挨拶をする前に目をそらされると嫌われたのかもと気が気でなかった。背が高いことも癖っ毛も同じ制服に似たような髪型ばかりの学校では浮いた存在に思われて、毎日こわかった。ちなみにわたしの中学は縮毛矯正が校則で禁止されていたから、賢い子たちは入学と同時に矯正して3年間をやり過ごす。生徒会副会長にもかかわらず中学2年で髪の毛がまっすぐになったわたしは職員室に呼ばれて叱られた。

学校ってメチャクチャ特殊な場所なんだって、学校を出てわかった。

男女どちらかに属さなければいけなくて、みんな同じ服を着て、同じ髪色で、目に見えない無意味なルールを慎重に守っていかなきゃいけない。たったいくつかの部活からひとつを選んで所属して、例外なく一位を目指さないといけない。ドロップアウトしたら学校での社会的地位を失うのも同然。教室では誰かとつるんでなきゃいけなくて、みんなと仲良く穏便にやってかないといけない。

制服を脱いだわたしがいま、当時のわたしに会えるなら、今よりちょっと背が低いわたしを抱きしめて言ってあげたい。

世界ってここだけじゃないよ。てか、学校が世界じゃないよ!

自信なさげで、猫背で、縮毛矯正でまっすぐな髪の毛で、なによりも嫌われることが怖かった、14歳のわたし!スクールバスで泣いていたわたし。頑張ってくれてありがとう。とっても可愛い、大好きだよ。

SIGHT

彼女はよく、ぼくの眼鏡を「貸して」と言って取り上げては身につけた。そしてその度に「頭がおかしくなる」としかめ面をして、それでいて楽しそうだった。

今日も、貸して、と彼女は言った。ぼくが返事をする前に彼女はレンズに触らないように器用に眼鏡を取り上げて、自分の耳に引っ掛けた。彼女の小さな鼻にぼくの眼鏡は大きすぎて、彼女はすこし顎をあげている。

「わ!プールに映ったのを見てるみたい!」

彼女はいつになく楽しそうに言った。ぼくは彼女が眼鏡のせいで顎を上げたまま器用にあたりを見まわしているのを眺めた。暗いのも相まって、ぼくは彼女の輪郭さえもはっきりしない。

なんとなしに顔を正面に向けると、眼下に広がる街の夜景が、滲んだ光の点々になって飛び込んできた。それは眼鏡をかけている時よりも光の粒が大きくて、ぼやぼやして、まるで万華鏡を見ているみたいだった。輪郭をもたない光の集合体がモザイクみたいになって、暗闇に浮き上がっている。ぼくは思わずすごい、と声を漏らした。彼女は、高台に張られた柵の前で、えっ? と振り向いた。

「どんな風に見えるの?」

ぼくはさっき思った通りに伝えた。「光の点々がぼやぼや滲んでる!万華鏡みたいに見えるんだ!」

彼女は何それ!すごい!と叫んだ。「わたしはプールに映った電灯が揺らめいてるみたいに見えるの!」

彼女は駆けてきて、またぼくのとなりに座った。そうして、ぼくが口を開けて眺めている夜景を、一緒になって眺めた。ふたりとも何も言わなかった。遠くで時々、踏切が鳴った。

なんの前触れもなく、彼女が無言で眼鏡をぼくの顔に引っ掛けた。登ってきてすぐに見た、はっきりと光源がわかる光の粒たちが目の前に広がっていた。生活が見える。

「これでおんなじのを見ているね。」

彼女は言った。

「わたしが眼鏡をかけてるときに見てる世界と、あなたが眼鏡をかけないで見ている世界は全然ちがうってことじゃない?さっきの話だと。」

彼女の小さな鼻には、ぼくの眼鏡の跡が赤く残っている。

「それってすこし、怖いなと思ったの。切ないことでもある。」

ぼくは、ふむ、と少し考えた。「でも、ぼくが今見てる夜景と君が見てる夜景が同じだって、どうしてわかるの?」

彼女は右の眉を吊り上げて、口をへの字にした。考えているんだ。

「わたしは科学に拠って立つ人間だからよ。」

ふむ。続けてぼくは言った。

「目の悪いぼくが眼鏡をかけて見ている世界と、眼鏡をはずして見ている世界は、どちらが本物だと思う?」

彼女は、じっとぼくの目を見つめた。眼鏡越しのぼくの目を。右眉は吊り上って、口はへの字のままに。

「世界はなんでも、明晰な方が正しいのよ。」

彼女は自分で納得したように頷きながら言った。「見えないっていうのは、明晰な世界が霞んだ状態のことだもの。いつも世界は完全に“在る“のよ。」

ぼくは、正面を向いた。明晰な光たちは、光源も輪郭も確固として持ちながら、そこに瞬いていた。

行こうか、とぼくは言った。彼女の手を握る。

それから彼女は、ぼくの眼鏡をかけなくなった。ぼくは心底ほっとしている。

あかね

9月のはじめの、まだアスファルトに陽炎がゆらめくような気温の夕方に、君は燃える空を遠く見ながら「秋のにおいだ」って言ったんだ。めちゃくちゃ暑かった。

僕は蒸気みたいな空気を吸い込んだ。風呂場にいるみたいだった。でももちろん石鹸のにおいはしなくて、秋のにおいもしなかった。ちょっとだけどこかの家の晩御飯のにおいが鼻をかすめたくらいだ。

でも僕は「ほんとだ」って言った。

そうしたら君は、ね、って言って、また自転車を押して歩きだした。

車輪が回る音と蝉の音のアンサンブル。

そうして2日もしないうちに、半袖じゃいられなくなって、夜は窓を閉めて眠るようになった。秋はやってきてたんだ。ほんとにね。

僕は、9月になるとそれを思い出して、何度も大きく息を吸い込む。秋のにおいは熱に弱いのか、僕はやっぱり長袖パジャマになるまでその到来に気づかない。

でも君は、ひっそりやってきて居心地悪そうな秋に挨拶ができる。お久しぶりです、今年も随分な夏でした。

秋は饒舌に語り出す。

君が迎え入れた季節が始まる。