SIGHT
彼女はよく、ぼくの眼鏡を「貸して」と言って取り上げては身につけた。そしてその度に「頭がおかしくなる」としかめ面をして、それでいて楽しそうだった。
今日も、貸して、と彼女は言った。ぼくが返事をする前に彼女はレンズに触らないように器用に眼鏡を取り上げて、自分の耳に引っ掛けた。彼女の小さな鼻にぼくの眼鏡は大きすぎて、彼女はすこし顎をあげている。
「わ!プールに映ったのを見てるみたい!」
彼女はいつになく楽しそうに言った。ぼくは彼女が眼鏡のせいで顎を上げたまま器用にあたりを見まわしているのを眺めた。暗いのも相まって、ぼくは彼女の輪郭さえもはっきりしない。
なんとなしに顔を正面に向けると、眼下に広がる街の夜景が、滲んだ光の点々になって飛び込んできた。それは眼鏡をかけている時よりも光の粒が大きくて、ぼやぼやして、まるで万華鏡を見ているみたいだった。輪郭をもたない光の集合体がモザイクみたいになって、暗闇に浮き上がっている。ぼくは思わずすごい、と声を漏らした。彼女は、高台に張られた柵の前で、えっ? と振り向いた。
「どんな風に見えるの?」
ぼくはさっき思った通りに伝えた。「光の点々がぼやぼや滲んでる!万華鏡みたいに見えるんだ!」
彼女は何それ!すごい!と叫んだ。「わたしはプールに映った電灯が揺らめいてるみたいに見えるの!」
彼女は駆けてきて、またぼくのとなりに座った。そうして、ぼくが口を開けて眺めている夜景を、一緒になって眺めた。ふたりとも何も言わなかった。遠くで時々、踏切が鳴った。
なんの前触れもなく、彼女が無言で眼鏡をぼくの顔に引っ掛けた。登ってきてすぐに見た、はっきりと光源がわかる光の粒たちが目の前に広がっていた。生活が見える。
「これでおんなじのを見ているね。」
彼女は言った。
「わたしが眼鏡をかけてるときに見てる世界と、あなたが眼鏡をかけないで見ている世界は全然ちがうってことじゃない?さっきの話だと。」
彼女の小さな鼻には、ぼくの眼鏡の跡が赤く残っている。
「それってすこし、怖いなと思ったの。切ないことでもある。」
ぼくは、ふむ、と少し考えた。「でも、ぼくが今見てる夜景と君が見てる夜景が同じだって、どうしてわかるの?」
彼女は右の眉を吊り上げて、口をへの字にした。考えているんだ。
「わたしは科学に拠って立つ人間だからよ。」
ふむ。続けてぼくは言った。
「目の悪いぼくが眼鏡をかけて見ている世界と、眼鏡をはずして見ている世界は、どちらが本物だと思う?」
彼女は、じっとぼくの目を見つめた。眼鏡越しのぼくの目を。右眉は吊り上って、口はへの字のままに。
「世界はなんでも、明晰な方が正しいのよ。」
彼女は自分で納得したように頷きながら言った。「見えないっていうのは、明晰な世界が霞んだ状態のことだもの。いつも世界は完全に“在る“のよ。」
ぼくは、正面を向いた。明晰な光たちは、光源も輪郭も確固として持ちながら、そこに瞬いていた。
行こうか、とぼくは言った。彼女の手を握る。
それから彼女は、ぼくの眼鏡をかけなくなった。ぼくは心底ほっとしている。